1. なぜ“スペクトラム”では足りないのか
発達障害の分類において、「スペクトラム(連続体)」という言葉はよく使われます。
ASDもADHDも、その傾向の強さや組み合わせによって連続的に存在している──。その捉え方自体は、過去の「白か黒か」分類に比べれば柔軟になったように見えます。
けれど、私はこの「スペクトラム」という言葉に、ずっと微妙な違和感を抱いていました。
スペクトラム=連続体という考え方には、どうしても“中心”や“軸”が潜んでしまうからです。
「定型発達」が中心で、そこからズレた位置にASDやADHDが存在している。そんなイメージが無意識に形成されてしまう。
違いを認めるように見えて、実は「基準」が隠れている構造。
それがスペクトラムモデルの限界だと感じています。
2. 人は“星”として存在している
私が辿り着いたのは、もっと非線形で、非中心的なイメージです。
それは、「人は星である」という比喩でした。
ASDもADHDもLDも、うつも統合失調症も、身体障害も──
さらには「定型発達」とされる人々も含めて、すべての人は、宇宙に存在する星のようなものだと捉えてみたのです。
星にはいろんな種類があります。明るい星、遠くて見えにくい星、揺らめいている星。
けれど、その違いは「優劣」ではなく、位置と特性の違いに過ぎません。
そして、星の多くは丸い。
その“形”が、わたしたちを「人間」として共通の存在にしてくれているのかもしれません。
3. 星をつなぐ線が、関係になる
1つ1つの星は、ただ宇宙に浮かんでいるだけでは意味を持ちません。
けれど、そこに線を引いた瞬間、星座になる。
誰かが「この星とこの星をつなげば、◯◯座だ」と意味を与えたとき、はじめてそこに“構造”と“物語”が生まれるのです。
この「線」は、わたしたちの関係性に似ています。
・あの人と私は似ている
・この人と関わると安心できる
・あの人とはうまくいかない
そのすべての線が、無数に交差しながら、私たちに**「意味」や「居場所」**を与えている。
人は、関係性の中でしか意味を持てない。
それは、1つの星では星座にならないことと、同じです。
4. 太陽系、銀河系、そして宇宙という構造
人と人との関係を線で結ぶことができるなら、それらを束ねた「構造」もまた見えてきます。
家族は、太陽系のようなものかもしれません。
重力が強く、逃れられない軌道の中で、星たちは回り続けている。
コミュニティや組織は、銀河系。
無数の星が集まり、それぞれの速度と軌道で存在しているけれど、全体としては1つの渦を描いている。
そして、そのすべてを含む空間が、宇宙。
私たちが生きる社会や文化の総体が、そこに広がっている。
星は孤立して存在するのではなく、必ず何かの構造の中で動いている。
「個と個の関係性」だけでなく、「構造と構造の関係性」もまた、わたしたちの存在を形づくっているのです。
5. 「障害」という軌道のズレに名前を与えること
では、発達障害とは何か?
私の感覚では、それは「ズレた軌道」と呼ばれてきたものです。
でも本当は、「ズレている」のではなく、「別の軌道にある」だけなのかもしれません。
見慣れない軌道にいる星は、ときに異物として排除され、ときに異才としてもてはやされます。
けれど、その星が存在すること自体に意味がある。
問題は、その星が“見えていない”こと、あるいは“どう関係を結べばいいか分からない”こと。
つまり、意味づけと関係性の設計が追いついていないだけなのです。
障害というラベルは、軌道に名前を与えるためのもの。
けれど、軌道のままで見れば、それぞれの存在が持つ重力や光が見えてくる。
6. 宇宙論的に捉えなおす、わたしたちの多様性
多様性という言葉もまた、どこか“多い少ない”の議論に引き戻されがちです。
でも、宇宙的な視点に立てば、私たちは「違っている」以前に「並んでいない」。
定型/非定型という二項でもなく、スペクトラムという軸でもなく、
無数の点が非対称に存在しているだけ。
重要なのは、「誰が優れているか」ではなく、
どの星とどの星がつながって、どんな星座を描くか。
それは文化や時代によって変わり続けるし、同じ構成でも別の線を引けば違う意味になる。
あなたの形は、きっと誰かにとっての“星座”になる。
誰かとつながった瞬間に、意味と物語が生まれる。
意味とは、配置と関係の中にある
ひとりの星には意味がない。
でも、つながりを描いた瞬間、そこに物語が生まれる。
意味とは、属性ではなく配置。
能力ではなく関係性。
強さではなく、軌道と光の交差点にあるもの。
それが、わたしの考える“神経多様性の宇宙論”です。