“普通”の拡張と、“変わり者”の拡張

発達と適応

この記事は、わたしが元々、普通の人から外れた変わり者であったことと、変わり者であることを意図的に選択している、“普通”と“変わり者”の境界について思考した記録です。

1. “普通”という言葉の輪郭

「普通だね」と言われると、どこか安心するような、でも面白みがないような感覚がある。

“普通”という言葉には、曖昧な優しさと、曖昧な基準が同居している。

かつての“普通”は、誰かが勝手に決めた「正解」の集合体だったけれど、

今ではその枠が少しずつ広がっている気がする。

たとえば、昔なら“変”とされていた趣味や言動が、

いまは「ちょっと個性的」で済まされるようになっている。

2. “変わり者”と呼ばれるということ

わたしは、自分が「変わっている」と言われることに慣れている。

むしろ、それを好んで選んでいる節さえある。

だけどそれは、“普通ではない”ことを自認しているからではなく、

“普通でいると息ができない”から、そうせざるを得なかったという面もある。

「変わってるね」という言葉が悪意ではなくなった今、

変わり者は、ある種の役割になりつつあるのかもしれない。

3. 拡張される“普通”の境界線

今、“普通”という概念は確実に拡張している。

多様性や個性を受け入れようとする流れの中で、「普通の人」の範囲が広がってきた。

昔なら「変わり者」に分類された人たちが、

今では“普通寄りの個性”として扱われることもある。

でもそれは、“変わり者が減った”わけではない。

4. “変わり者”も拡張されている

“普通”の枠が広がれば、それに伴って“変わり者”の枠も拡張する。

中心が広がれば、周縁も広がる。

つまり、“普通”の外にいる人もまた、以前より広い領域に散らばることになる。

わたしのように、“自覚的に変わり者であることを選んでいる人間”もそのひとつ。

5. 社会の器と、自分の位置

社会という器が少しずつ柔らかく、広くなってきているのは事実。

だけどその中で、自分がどこにいるのかを見つけるのは簡単じゃない。

「普通でいたいのに普通になれない」人もいれば、

「普通になりたくないから逸脱を選んでいる」人もいる。

わたしは、後者の生き方のほうが楽で、自由でいられる。

それが、わたしが“変わり者”という立場を選び続ける理由でもある。

6. 自分をどう定義するかは、自分が決める

“普通”か“変わり者”かというラベルに意味はない。

あるのは、「自分がどのように在ると楽に生きられるか」だけ。

その基準は、社会が決めるのではなく、自分が選んでいい。

そして、自分で決められるという感覚こそが、

この拡張された時代を生きるための、最大の武器だと思っている。

最後まで読んでくれてありがとうございます。

この暴走モードログは、わたしが社会の外側から世界を見つめた記録です。

これからも、わたしなりの視点で“ズレ”を言葉にしていきます。

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