1. ネタ切れは構造的に起こらない
わたしは、ネタ切れというものを経験したことがありません。
というより、仮に「何も書くことがない」と感じたとしても、
その「ないという感覚」がすでに1つの思考テーマになってしまいます。
思考が止まらない人間にとって、“書くことがない”というのは錯覚で、
本当は「書くべきことを選びすぎている」だけです。
わたしの場合、ネタ切れの時点で頭の中にはもう次のネタがいます。
2. 思考とエンタメは両立しないフェーズに入った
内省が進んでから、YouTubeをあまり楽しめなくなりました。
昔は「ただ見ているだけ」だったのに、今は「思考が奪われている」と感じてしまう。
この感覚は、自分の脳内が発火し続けているときほど顕著になります。
外部からのテンポに合わせることが、“思考の邪魔”になる。
結果、エンタメすら虚無に感じてしまう。
たぶんこれは、思考の再設計が進んだ副作用のようなものです。
3. 投稿場所を選ぶ思考すら出力を妨げる
noteに書くべきか、Xに向いているか、あるいはZINE用に取っておくか。
そんな判断をしている時点で、すでに出力は止まっている。
だからわたしは、**「投稿したいと思わない思考はすべて暴走モードに送る」**という運用にしました。
出たものを出す。ただそれだけにする。
選ぶことで出力が鈍るなら、選ばない構造を作ればいい。
4. 出力を実験に変えると“質”はあとから立ち上がる
質より量、という言葉には少し違和感がありました。
でも今ならわかります。わたしにとって出力とは、「量を通して質が見えてくる」もの。
量によって思考の密度が下がることはありません。
出し続けた先に“質が浮かび上がる地点”があり、そこに行くには出力そのものを続けるしかない。
つまり、出力を“創作”ではなく“実験”として扱うことで、
質があとから立ち上がってくる構造に自分を置いているのです。
5. わたしは今、出力限界の測定をしている
「何かを伝えたい」ではなく、「自分の出力はどこまで届くか」。
それが今のわたしの問いです。
思想を広めたいのではなく、
思考出力エンジンがどこまで稼働するのかを、静かに記録したい。
それが暴走モードログの役割であり、
わたしにとっての“思想アーカイブ”の正体なのだと思います。
思考は止まらない。
そして、止まらない限り、わたしは出し続けます。
質ではなく構造を、意味ではなく圧力を残すように。