この記事は、他者に興味がないわたしがなぜ他者を救う行動をするのかを内省した記録です。
1. 感情ではなく構造で世界を見ている
わたしは、感情よりも構造で世界を捉えます。
人がなぜそう感じるかではなく、なぜそう感じるような環境や仕組みになっているのか、そこに関心があります。
誰かのために、という動機では動けない。
でも「なぜこの不具合が放置されているのか」「なぜ誰も仕組みを変えようとしないのか」という問いには自然に引き寄せられます。
その問いに対して、わたしが構造から答えを出したくなる。
それが、行動の出発点です。
2. 社会性より、合理性への欲求
社交辞令や挨拶の意味が理解できないと感じることが多いです。
相手の気持ちを尊重したいというより、「この構造、必要あるのか?」と疑ってしまう。
わたしの行動は、共感や善意ではなく、合理性に基づいています。
今の制度や仕組みが非合理的で、誰かが苦しんでいるなら、それは構造の方を変えたほうが早い。
わたしがその構造を変えられるなら、変える。
他人への感情より、仕組みの改善そのものに動機があります。
3. “自分のため”が、“誰かのため”に変わる構造
もともとは、わたし自身の生きづらさをなんとかしたいというのが出発点でした。
でも思考を深めていくうちに、それが「他の人にも共通する構造的問題」だと分かってくる。
すると、それを言語化し、設計し直したくなってくる。
“自分のためにやっていたこと”が、“誰かのためになっている”という構造があとから生まれている。
わたしにとっては、それが自然な順番です。
4. 「批判」より「設計」を選ぶ理由
XなどのSNSで、制度に対する不満や批判はたくさん見かけます。
でも、設計し直そうとする人はほとんどいません。
批判は、感情の反応です。
わたしは、構造を変えることでしか状況を変えられないと知っているので、批判にはあまり興味がないのです。
どこが壊れていて、どうすれば直せるか。
そのために必要な部品を考え、組み直すほうが、わたしにとっては正しい行動に思えるのです。
5. 評価されなくても動くということ
肩書きには興味がありません。
誰かに認められたいとも思っていない。
それでも、動いてしまうのは、「気になってしまう構造上の矛盾」があるからです。
人に興味がないのに、人のための仕組みを改善したくなる。
その矛盾自体が、わたしの構造そのものなのだと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
これは、わたしの“動機”をめぐる記録のひとつです。